#04 また、しんじゃったんだって – おこもり奇譚(長編小説 / 現代ファンタジー)

前の話 # 03 おかあさんの、におい
おかあさんの、においがした。
おひさまのような、おはなのような、ほんのりあまくて、やわらかいにおい。
ずっとまえになくしてしまった、あるはずのないにおい。
だから、はしった。
にほんのあしはおそすぎるから、よんほんのあしではしった。
あたまのなかと、まわりのけしきが、まっしろなまま、はしった。
はしって。
はしって。
そうして。
たくさんのさくらのしたで。
みつけた。
きれいな、おんなのひとだ。
やさしいよこがおが、さくらをみあげている。
ゆったりとしたスカートが、かぜにゆれてふわりとふくらむ。
ああ、おかあさんだ。
そこに、おかあさんが、いる。
おかあさん。ねえ、おかあさん。
そのすがたでも、ユキのことわかる?
ユキのこと、まだだいすき?
ふらふらと、おんなのひとのもとへふみだしかけたあしが、きゅうにじめんにはりついたようにうごかなくなる。
――おんなのひとのてを、おとこのひとがとっていた。
あったかいえがお。
あったかいくうき。
しあわせそうにほほえむおんなのひとが、もうかたほうのてでじぶんのおなかをやさしくさする。
ちゃんとした、まあるいかたち。
ちゃんとした、ただしいかたち。
「――ユキ」
おもくなってうごかなくなったからだを、うしろからすくいあげられた。
こえと、においと、くうきが、おとうさんだとおしえてくれる。
「あれは、もう別の人生を送っている」
おとこのひととよりそいながら、おんなのひとがあるいていく。
とおくにいってしまう。
はなれてしまう。
また、あえなくなってしまう。
おかあさん、まって。
おかあさん、ユキだよ。
そうさけんで、おいかけたい。
でも。
おとうさんのうでが、とてもつよく、いたいほどつよく、だきしめてくるから。
なにも、できなかった。
ただ、そこにいた。
――おんなのひとが、みえなくなるまで。
「……」
「そのときは、もうおかあさんにあっちゃいけないんだなっておもったの。でもね、でもね」
「……おう」
「ユキ、やっぱりどうしてもおかあさんにあいたくて、おとうさんにたのんだの。でも、だめだっていわれて」
「――ああ。だからケンカか」
周囲に戦争とまで言わしめるほどの親子喧嘩。いつもおとなしいユキが、そうまでして食い下がる姿は想像できない。
そして、シキさんも。大事な大事な一人娘の願いでも、それだけは聞けなかったんだろう。たとえ、ユキの外側を傷つけることになったとしても。
「ケンカのあとに、おとうさんがおはかにつれていってくれた」
お墓。ざわりと、胸に暗い予感が広がる。
「おとうさんがね。おかあさんは、しんだ、って」
キューちゃんの尻尾の先を持ち上げながら、ユキが言う。
さっきから、俺を見ない。視線が、まったく上がらない。
「おかあさん。また、しんじゃったんだって」
――また。
この二文字がこんなに重い響きを持つことがあるなんて、想像もしなかった。
しばらく頭の中を検索してみても、俺の浅すぎる人生の中からは、ユキにかけられるような言葉は見つからない。できることがあるとすれば、せめてその記憶から少しでも遠ざけてやれるように、話を先に進めることだけだ。
「……でも、そのお母さんの匂いってやつを、さっきキューちゃんから感じたんだな?」
「うん。いまも、ちょっとだけしてる」
母親の欠片の一粒すら逃すまいと、キューちゃんに頬を寄せて目を閉じるユキの姿を見ていられなくて、俺は迷った挙げ句、天を仰いだ。いつの間にか、星が輝いている。中庭を飾る照明にも、決して負けることなく。
「……それは、つまりどういうことだ? ええと、本当のお母さんの生まれ変わりのほうのお母さん、は……その、亡くなってる、のに」
「キューちゃんが、おかあさんなのかな?」
「きゅ?」
「いや、それはない」
ユキが本気で言っているとは思わなかったが、即座に否定して可能性のひとつを潰しておく。ユキとキューちゃんは、今日までにもう何度も接触している。今頃になって匂い云々の話が浮上するのはおかしい。そもそも、人の魂が気狐に転生するなんて聞いたこともない。
「……まあ、生まれ変わりっていう現象が前提になってるところから、俺は理解できないんだが」
仏教以前に、昨今は小説やゲームなんかでもよく聞く、輪廻転生という概念。前世や来世なんてものが本当にあるのか、正直、俺には疑わしい。
けれど、ユキは信じているし、おそらくシキさんも疑ってはいない。人間の自分より遙かに長く生き、遙かに世界の本質に近い存在が、魂という目には見えないものを、当たり前のように認識している。
なら、それに関しては、ひとまず置いておく。悩んだところで答えは出ない。
今の俺に、できることは――。
「……スーちゃん」
思案に暮れていた俺の耳に、ユキのくぐもった声が届いた。星空からユキへと視線を移せば、キューちゃんをぎゅっと強く抱き締めたまま、顔を伏せている。
「っあのね、ユキねっ」
「……おう」
大事なことを、伝えようとしている。
おそらくは、ずっと心の中でくすぶっていたに違いない、思いを。
言いたくても、ずっと誰にも話せなかったに違いない、想いを。
……震える声で、必死に。
「ユキ、ユキっ、おかあさん、っに」
――けれど。
無機質な着信音が、空間ごと、言葉を引き裂いた。
思わず息を呑み、ユキと顔を見合わせる。
その聞き覚えのありすぎるメロディは、俺の通学用のバッグから流れてくる。無視を決め込んでもよかったが、ほかに誰もいないとはいえ、ここが公共の場であるという現実がそれを許さない。
期せずしてユキの告白を邪魔された形になったことに苛立たしさを覚えながら、発信者の名前をろくに確認することもなく電話に出た。
「……もしもし」
『あ、スーくんッスか!? ユキちゃん一緒にいるッスか? 旅館に戻ってきたら、まだいなかったから心配になっちゃったッス!』
ノルさんの焦る声が、携帯からだだ漏れだったのだろう。ユキがこちらを見ながら、申し訳なさそうにうなだれている。俺のほうも、直前までの怒りはすっかり消えてしまっていた。
「すみません、ノルさん。ユキ、まだ俺と一緒です。アイビースクエアでちょっと話し込んじゃってて……」
『あ、そうだったんスね! スーくんがいるなら安心ッス! でもそろそろ帰ってきてくださいッス!』
「了解です」
通話の終了ボタンを押し、ほうっと一息ついたところで、ユキがキューちゃんを抱えながら立ち上がった。もういいのかと聞けば、小さい頷きだけを返してくる。
ここでうやむやにせず、言いかけたことを聞き返してやるべきなんだろうか。中庭を出て、旅館へと先導するユキの小さな背中を見つめながら、今日は他にも似たような展開があったことを思い出す。
――在里は、あのとき、何を言いかけたんだ。
ユキにしろ、在里にしろ、俺はひょっとしたらとんでもなく大事なことを見逃しているんじゃないか。もうすでに、どこかでなにかを間違えてしまっているんじゃないか。
言い知れぬ不安を抱えながらも、俺はやはり無言のまま、すっかり暗くなった道程を重い足取りで歩き続けた。