オガシロ(短編小説 / 現代ファンタジー)

ねえ、ご存じかしら? この辺りには尻尾が九本の白い狐が住んでいて、死に往くものの最期の願いを叶えてくださるんですって。
それは、どんな願いでも?
ええ、どんな願いでも。
かわいい女の子たちが、公園だったか空き地だったかで、そんな噂話をしていたような気がする。
ごくありふれた都市伝説。そう思っていた。――今、この瞬間までは。
(いち、にい、さん……はは、ホントに九本もある)
えっと、生まれたときから九本だったんですか?
それ、たくさんありすぎて邪魔じゃないですか?
いつもなら、そんなしょうもないことも遠慮なく聞けるのになあ。もう声を出すどころか、呼吸さえままならな――あ、代わりに血が出てきたわ。自分でも引くほど大量に。
俺、このまま死ぬんだろうな。だって、彼が来ちゃった。死に往くものの最期の願いを叶えるという、九尾の白い狐が。
望みはなんだ、と。カミサマみたいな厳かな声で、カミサマみたいな傲慢なことを聞いてくる。いや、違うか。きっと優しいひとなんだろう。目の前で誰かが死んでいくのを、黙って見ていられないんだろう。
(それはちょっと、カワイソウかもなあ)
なんて俺が同情なんかしたところで、どうしようもないんだけど。だって死ぬからね? 今すぐにでも死ねちゃうからね? 脚の感覚なんてとっくにないし、なんならもう痛みすら感じない。まあ、このまま眠るように死ねるんだったら、それはそれで幸せなのかも。呆気ない一生だったけど、俺は俺なりに――「望みはなんだ」
あれれ、おかしいぞ。自然な流れではじめた俺のジンセイのエンドロールに上から堂々と被せてくる声がある。いや、声だけじゃない。なんかフサフサしたものまで被せてきた。比喩じゃなくて物理的に。より正確に描写するなら、多分うつ伏せになって倒れている俺の背中を狐が尻尾でぺしぺしと叩いている。死人に、鞭を、打っておられる。
いや俺まだ死んでないんですけどねえって待て待て待て待て待ってほしい。ひょっとしてこのお狐様、俺の望みを聞くまで俺を死なせない気か? え、そういうのアリなの? それはもう押し売りとかの類じゃないの?
「望みを。望みを」わー、なんかもう単純に望みが欲しいだけのひとになってるー! 壊れた機械みたいになってるー怖いよーママー!
って、俺ママいないんだった。ママどころかパパも知らなかったわ。未練を残す相手が誰もいないっていうのは、良いことなのか悪いことなのか……ん、未練か。みれん、ミレン、みりん。とうとう一度も舐めたことなかったけど、おいしかったのかな、みりん。
「ノゾミ、ノゾミ」あーもーそれじゃー俺の名前がノゾミみたいじゃーん。このひとマジで諦める気配ゼロなんだけど暇なのかな暇なんだろうな。
「のぞみ……」はいはいわかったわかったわっかりましたー。頑張って捻り出すから、そんな悲しそうな顔で覗き込んでこないで。望みの一つや二つ、俺にだってあるから任せといてよ、ええっと、ええっと、ええっとねええ?
彼女はきょうも、縁側に座っていた。
昔ながらの大きな平屋住宅。隅々まで手入れが行き届いた庭と、季節の野菜で賑わう畑に囲まれた空間は、まるで世界から切り取られたかのように静かな空気が流れている。
「……?」
そんな穏やかな場所に不法侵入してきた不審人物に気がついて、彼女がゆっくりと顔を上げた。昔はとびきり綺麗な人だったということは、数十年前の色褪せた写真を目にしたときから知っている。いや、見なくたってわかっていた。歳月とともにどれだけ皺や白髪が増えようと、彼女本来の美しさを損なうことは未だにできずにいるのだから。
「あなたは……」
いつも穏やかな笑みで迎えてくれる彼女だけど、きょうは違う。こんなに驚いた顔を見たのは、初めて会ったとき以来かもしれない。
彼女はおもむろに縁側から立ち上がり、一歩、二歩とたたらを踏む。俺のほうも同じ間隔で歩を進め、ほどよい距離感で向かい合った。
ある夏の日の、陽炎のような不思議な出来事。全ての事象をあるがままに受け入れることが得意な彼女が、この瞬間をそんな風に捉えてくれることを願う。
ただ、必要以上に不安にさせたり怯えさせたりはしたくない。相手を落ち着かせるために名前を呼ぼうとして、戸惑った。なんて呼べばいいんだろう。 彼は、なんて呼んでいたんだろう。
「……妙子、さん」
これ以上ないほど目を見開いた彼女――妙子さんは、長い沈黙を経て、やがて静かに微笑んでくれた。正解を引き当てたという安堵も手伝って、俺の頬も自然に緩む。
「お元気ですか」
「はい、とても」
淡々とした短いやり取りだけど、それで十分。むしろ長々と話すとボロが出てしまう。この姿さえ妙子さんに見せることができたら、それでいい。
「とても幸せに暮らしていましたから、大丈夫ですよ」
大丈夫、と。こちらを安心させるように、ことさら明るく笑う妙子さんを見て、胸の奥が震え出す。
こういうところがすごいんだ、この人は。いつだって他人のことを親身になって考えていた。怪我をして迷い込んできた汚い野良猫のことも、その腕に抱えて必死に助けようとしてくれた。
「良い方と巡り会えました。良い子にも、良い孫にも恵まれて、これ以上の幸せはありません」
それは本当のことだろう。彼女はずっと幸せそうだった。優しい家族に囲まれながら、居心地のいい家で、余生を穏やかに暮らしている。
でも、ひとつだけ。彼女の表情が憂いを帯びる瞬間があった。昔の――戦前の写真を見るとき。若かった彼女が心から愛した、今は亡き恋人との思い出に浸るとき。
「私の幸せは、貴方と出会えたときから始まりました。ありがとう、直哉さん」
彼女の太陽のような笑顔を見届けることができたはずなのに、俺の心の中では急速に黒雲が広がっていく。
この言葉を、俺が受け取っていいんだろうか。俺がこれを聞いてしまって、本当によかったんだろうか。
妙子さんのためだと思ってやったことが、逆に彼女を傷つけてないだろうか。大事にしまい込んでいた宝物を、泥だらけの手で暴くような真似をしているんじゃないか。
そんな焦燥が、俺の顔にへばりついていたのかもしれない。妙子さんは目を細めて、いっそう深く微笑みかけてくれた。
「だから、なにも心配しないでくださいね。――ああ、心配といえば、きょうはまだあの子の姿を見ていないんです。いつも遊びに来てくれるのに」
どきん、と。心臓がひとつ大きく跳ねる。
「艶やかな真っ黒の毛並みの、とても可愛らしい猫。ある日、ふらりとここにやって来て、それから毎日、話し相手になってくれた。私はずっと一緒に暮らしたかったのだけど、怪我の手当のために家の中に入ってもらって以降は、決して縁側から上がって来ようとはしなくて……」
(それは、だって。あの子が――)
「きっと、たまに遊びに来る一番小さな孫が猫を怖がることを知って、遠慮してくれたんでしょう。本当に賢くて優しい子」
不思議な虹彩を宿した瞳が、まっすぐに俺を見つめる。
ああ、この人は本当に全てお見通しなんだ。
この家で一緒に住むことを、俺が拒んだ理由も。
目の前の男が、直哉さんの亡霊なんかじゃないことも。
人間に化けた黒猫が、下手なお芝居を演じていることも。
それなのに、恋人の姿を借りて現れた俺を責めるでもなく、理由を問い質すでもなく、陽だまりのような言葉をくれる。
妙子さんという人は、そういう人だ。
「……ねえ、直哉さん。あの子は、また会いに来てくれるかしら」
何かを確信したような、彼女の言葉。
長い年月を重ねた人間や、弱肉強食の世界の生き物……妙子さんだとか俺だとかの身近にあるもの。喪失。死別。そういった、哀しい気配を帯びた問い掛け。
妙子さんは、気づいている。これが、黒猫との今生の別れになると。
「会いに来ますよ、必ず」
――だから俺は、最初で最後の嘘をついた。
「いやバレバレだからね。隠れるの下手すぎか」
名残惜しくも縁側を後にして、しばらく歩いた先。田んぼの道沿いにぽっこりと出現した小さな鎮守の森までやってきた俺は、立派なタブノキの後ろにいるお狐様に向かって反射的にツッコんでしまった。顔や本体は見えなくても、その無駄に豪華な八本の尻尾がはみ出しまくってる。こちら側からの視点だと、木からイソギンチャクが生えているみたいで、だいぶ気持ちが悪い。そんな気持ちの悪い大木に背中を預けるように、俺はどかっと座り込んだ。
「あー、二足歩行ってしんどい。ニンゲンってすごいな。お狐様は人の姿になったりするの?」
「まあ、たまには」
「絶対イケメンでしょ。そういう声してるもん」
「お前のその姿も美しいぞ」
「だよねー。妙子さんに写真を見せてもらったときから思ってたけど、白皙のビショウネンすぎるわ直哉さんって」
学生服に身を包んだ、中性的な美貌の少年。写真を通して見たその姿を、記憶にあるかぎり忠実に再現することには成功した。でも、あくまでも中身は俺でしかないわけで。繊細さだとか儚さなんかは欠片も反映できなかったのは、誠に誠に遺憾であります。
「もういいのか」
「もういいよ。もう十分。未練解消。願望成就。……まあ、妙子さんにはバレバレだったから、あんまり意味なかったかもしれないけど」
俺がお狐様に半ば無理矢理引き摺り出された、最期の願い。それは、戦争で亡くなった妙子さんの恋人――直哉さんを、妙子さんに会わせること。そのために必要な、手段。
「お願い事きいてくれて、ありがとね。まさか本当に、猫又になれるとは思わなかった」
猫又とは、人の姿に化けることのできる猫の妖怪で、その名の通り尻尾が二本あることが一番の特徴だ。逆に考えれば、尻尾が二本になれば猫又になれるんじゃないか。猫又になれば、直哉さんの姿で妙子さんに会いに行けるんじゃないか。俺の小さな脳がフル回転して導き出したものは、そんな冗談みたいな思いつき。だから。
――しっぽ……いっぽんだけ、かして……
タイミングよく喉に詰まった血の塊と一緒に、俺は最期の願いを吐き出した。
でも、白く霞む視界の隅で揺れる九本の尾が、まるで黄金の麦の穂のように美しくて。そのうちの一本だけでも引っこ抜くなんてとんでもないことなんじゃないかと、言ったそばから気づいてしまった。
前言撤回しようと再び口を開くより早く、せっかちで太っ腹なカミサマが「わかった」と、なんと二つ返事で頷いてしまったものだから――俺の願いは、こうしてうっかり成就することになる。
「俺が言うのもなんだけど、あんまりホイホイ言うこと聞いちゃ駄目だよ? 中には悪い奴だっているんだから、いいように使われちゃうよ?」
「そういう輩は面白味がないので最初から相手にしない」
「あ、意外にも人を選ぶタイプだった! ちょっと安心したような、ちょっと残念なようなフクザツな気持ち! でも、でもさ、そうやって選んだ結果、俺みたいな奴に当たっちゃったわけじゃん。尻尾一本貸してくれ、とか頭のおかしいこと言う奴もいるわけじゃん。やっぱり気をつけたほうがいいって」
「ふむ。それなのだが」
お狐様が言葉を切った。沈黙が降りると、その場所にひぐらしの声が入り込んできて、否が応でも夏を感じさせる。暑さが遠のいた夕暮れ。風に揺れる木々の葉音。水と緑が混ざった濃い匂い。
ああ、死ぬにはいいシチュエーションだ。焼けたアスファルトの上で最期を迎えるより、遥かにいい。
「なぜ、貸せなのだ? 寄越せ、ではなく」
「……それは、お狐様が最初はお人好しそうに見えたからさ。最初はね? 最初だけはね? だから、尻尾をくれって言ったら本当にくれそうだったし」
「? そのまま貰えばいいのでは?」
「いや、よくないんだよ。よくない。だって――」
思い出すのは、彼女の笑顔。
子どもたちに縁側で絵本を読み聞かせる光景を、俺はずっと見ていた。
庭の草花や畑の野菜を通して色々なことを説く姿を、ずっとずっと見ていた。
「ひとのものをとったらいけないんだよ」
教えてもらったのは、俺もおんなじ。
「……成程」
「納得した?」
「いや、理解した」
「そっか。まあ、じゃあそういうことだから。返却するね」
「オレに尻尾を返せば自分がどうなるのか、わかっているのか」
「死ぬんでしょ? わかってるよ」
人の姿になっているので今は見えない、俺の新しい二本目の尻尾。これはお狐様に与えられた仮初めの命だ。
返してしまえば元通り。車に轢かれてボロボロになった、無惨な野良猫の死体の出来上がり。
俺は別にそれでいいんだけど、俺を見つけた人をびっくりさせるのは申し訳ない。どうかそれが、妙子さんじゃありませんように。妙子さんの旦那さんや子どもや孫やその友達のお母さんとか近所の人とか行きつけの商店街の……うわあ、妙子さん知り合いいっぱいいるな。すごいな、さすが妙子さん。こんなにいたら、俺ひとりくらいいなくなったってゼンゼン寂しくないね。
「わかった。では、受け取ろう」
息を吐いた。
目を閉じた。
走馬灯とやらが一向に流れないのは残念だけど、まあいいか。
ただの野良猫のジンセイとしては、そんなに悪くなかったな。
覚悟を決めて空を仰いだ俺の背後で、お狐様がくつくつ笑う。
「五百年後くらいに」
ねえ、知ってる? この辺りには尻尾が八本の白い狐が住んでいて、死にそうなひとの最期の願いを叶えてくれるらしいよ。
それって、なんでも?
ううん、なんでもじゃないみたい。あまりにも度が過ぎた願い事は、一緒にいる猫又が「そんなにホイホイ受け入れたら駄目だっていつも言ってるでしょ」って止めに入って却下されるらしい。
なにそれ、おもしろ。
あ、おもしろいと言えばね。
なになに?
その猫又、体は黒いのに尻尾が一本だけ真っ白なんだって。
え、おもしろ……じゃなくて、それだと、
「オガシロ」
「はいはい、いま行きますよ」
尾が白いからオガシロだなんて、安易すぎるにも程がある名前だけど、かれこれ五十年近く呼び続けられたらそれなりに愛着も湧くってものだ。
また何か面白いものを見つけたらしい八尾のお狐様は、坂道の一番上でソワソワと振り返りながら俺が来るのを待っている。面白いものっていったって、どうせ死にかけた何かだったり、生まれたばかりの何かだったりするんだから、俺としてはだいぶ気が重いんだけども。
まあ、それも仕方ない。さすがにもう慣れちゃったよ、妙子さーん!
お狐様のいつもの気まぐれに付き合うべく、俺は二本目の白い尻尾を揺らしながら、きょうもゆっくり後を追うのだ。